「あの人しか知らない仕事」、ありませんか
長く続いている会社ほど、あるいは分業が進んでいる会社ほど、「その人しか知らない仕事(属人化した業務)」が増えていくものです。
たとえば、お客様からの電話問い合わせに、いつも同じベテラン社員が対応している場面を思い浮かべてみてください。本人はそつなくこなしていますが、相手からどんな話を聞き、何を考慮し、どう判断して回答したのかは、他の誰も詳しく知りません。
その人が在籍している間は現場が回ります。しかし、退職や休職でいなくなった瞬間に、組織は初めて立ち往生します。
そこで必ず持ち上がるのが「マニュアルを作って残そう」という話です。
しかし、長年の経験から培われたノウハウを、後からすべて文章化するのは容易ではありません。また、ベテランが膨大なマニュアルを書き上げ、新しい人を採用して引き継ぐという従来の方法だけでは、急速に進む高齢化や採用難に直面する地域の企業現場では、どうしても間に合わない現実があります。
では、私たちは何から始めるべきなのでしょうか。
まず「日々の仕事」を記録する

経験豊富な社員が持っているのは、単なる「作業手順」だけではありません。
- 「このパターンのときは、こう返答したほうが角が立たない」
- 「この件は、念のため社長に相談してから動こう」
- 「数年前にも似たようなトラブルがあったな」
熟練者ほど、こうした高度な判断を無意識かつ自然に行っています。本人にとっては「当たり前の呼吸」になっているため、周囲から「持っているノウハウをすべて書き出してください」と頼まれても、何をどう言語化すればいいのか分からないのが実情です。
もちろん、最終的にマニュアルやチェックリストは必要です。しかし、「マニュアル作りから始めない」ことが肝要です。順序を逆にしてみましょう。
- まず、電話や打ち合わせ、メールなど、日々の仕事のやり取りを「そのまま記録」する
- たまった記録を振り返りながら、頻出する対応や判断のパターンを見つけ出す
- 再現性が必要なポイントだけを抽出し、チェックリストやマニュアルに落とし込む
頭の中にある判断基準をゼロから書かせようとするのではなく、「日々の記録の中から少しずつ拾い上げる」。このアプローチこそが、現場に過度な負担をかけずに知識を引き継ぐ現実的な解となります。
実践例:5日間で「57万字」の生きた言葉
C-tableでは、お相手の了承をいただいた上で、社内外のほぼすべての打ち合わせを録音しています。その音声データをAIで文字起こしし、要約議事録とともに社内ナレッジベースに蓄積しています。実際に2026年8月下旬の1週間(5営業日)で記録された量を集計したところ、次のような結果になりました。
- 全文文字起こしを行った会議数:26件
- 蓄積されたテキスト量:合計 約57万字
※社内会議文字起こしのサンプル

お客様との商談、社内定例、ヒアリングインタビューなど、文庫本にして数冊分に相当する生きた言葉が、わずか1週間で社内の共有資産として残った計算になります。
最大のポイントは、「新しい作業をほとんど増やしていない」という点です。「話す」という行為は、日常業務の中で既に行われています。その会話をそのまま記録・文字起こしするだけなら、社員の追加負荷は最小限で済みます。全社的な文字起こしには当初心理的な抵抗感があるかもしれませんが、実際に社内で共有・活用し始めると、その圧倒的な価値を誰もが実感するはずです。
「57万字の全文記録」だからこそ残せる、現場のリアル
要約された議事録は「決定事項」を手早く把握するには便利ですが、背景にある重要なニュアンスはそぎ落とされてしまいます。全文記録だからこそ残せる情報の一例をご紹介します。
製造業のお客様との10分間の電話(約4,000字)
「社内では同じ呼称を使っているが、実は別系統の受注業務が2つ並行している」「電子受発注のシステムはあるものの、製品コードの紐付けが終わっておらず使われていない」といった、担当者しか知らなかった業務の歪みが浮き彫りになりました。この10分の記録が、次期システム設計の貴重な青写真になっています。
顧客業務を整理した会議(約7万字)
「社内管理番号は単なる連番ではなく、製造工程全体をつなぐハブになっている」「外注先の選定基準や納期の読みは、ベテランの頭の中にしかない」といった、暗黙のルールが可視化されました。**
自社サービスを議論した定例会議(約5万字)
後から「あの仕様は、当時どんな前提や議論を経て決まったのか」をいつでも原文レベルで検証できるようになりました。
これらはすべて、「あとで文章にまとめて提出してください」と依頼していたら、決してアウトプットされなかった情報です。「普段どおりに会話したからこそ、漏らさず残せた情報」なのです。
要約と全文は二者択一ではありません。「スピード把握のための要約」と「前提や背景を深掘りするための全文」の両方を手元に置いておくことが重要です。
記録があるから、AIが使える
日々の仕事がテキストデータとして蓄積されていくと、AI活用のステージが一変します。
AIは汎用的な質問にはすぐ答えてくれますが、導入しただけで自社特有の事情を自動的に察してくれるわけではありません。AIが個社ごとの業務に寄り添った支援を行うためには、「その会社が過去にどんな状況で、どんな判断を下し、どう対応したか」というファクト(記録)が必要です。
- 「以前、この顧客と似たようなトラブルがあった際、どう対応したか」
- 「この仕様を決定した背景にはどんな経緯があったか」
あやふやな記憶に頼るのではなく、客観的な記録をもとにAIへ問いかけ、社内の集合知から最適解を導き出せるようになります。自社の記録が増えるほど、AIに任せられる仕事の幅も確実に広がっていくのです。
「名刺」が教えてくれた、個人の情報を会社の資産へ変える道筋
「個人の手元にある情報を、全社で使える資産に変える」

この変革は、かつて名刺のデジタル化でも起きた現象です。かつて名刺は、営業担当者それぞれの机の引き出しにしまわれており、「誰が・どの会社の・誰とつながっているか」は本人しか把握できませんでした。
最も尊敬する会社の1つであるSansan社は、紙の名刺をデータ化し、個人が持っていた顧客との接点を、社内全体で共有・活用できるデータベースに変えました。同社もこれを「名刺を企業の資産に変える」と表現しています。(Sansan公式サイト)
注文書、電話のやり取り、FAX、メールの問い合わせもまったく同じです。現状ではまだ「担当者の頭の中」「個人の受信トレイ」「受話器の向こう側」に埋もれたままになっています。
顧客ごとに過去の経緯や電話のやり取りが整理され、別の担当者でも即座に背景をキャッチアップできる状態をつくる。その段階に至って初めて、日々のやり取りは「会社の知的資産」になります。記録は残すだけでは不十分であり、「必要な人が検索でき、理解でき、次の仕事に再利用されて初めて資産になる」のです。
「見えない資産」は、日々の記録の上に育つ

経済産業省が提唱する「知的資産経営」にもあるように、企業の競争力の源泉は、不動産や設備といった目に見える資産だけでなく、人材のノウハウ、技術、顧客ネットワークといった「目に見えない知的資産」にあります。
しかし、人そのものを永続的に会社に留めておくことはできません。知識が個人の頭の中にしかない状態のままでは、その人が会社を離れた瞬間、長年培った技術やノウハウも一緒に消え去ってしまいます。会社に残せる唯一のものは、日々の仕事から生まれる「記録」です。
これは個人の手柄を吸い上げる行為ではなく、一人の貴重な経験を他の社員が活かせるようにし、その人が積み上げた知見をより広く組織に役立てるための取り組みです。
明日から踏み出せる、最初の一歩
最初からすべての業務を網羅しようと構える必要はありません。まずは一度、「お客様との打ち合わせや電話を1件だけ録音・文字起こししてみる」ことから始めてみてください。
(※事前の相手方へのご案内・了承の取得や、社内の保存ルール・閲覧権限の確認は必ず行いましょう)
文字起こしができたら、同僚に見せて尋ねてみてください。
- 「この記録を読んで、初めて知ったことはあった?」
- 「次の仕事に役立ちそうな情報はあった?」
それだけで、日常会話の中にどれほど貴重なノウハウが埋もれていたかに気づくはずです。
私たちはこの取り組みを、「会社の『しごとの記憶』を育てること」と呼んでいます。
個人の知識や経験を、失われる前に日々の仕事の中から組織に残し、人とAIが活用できる形に整えていく。どの業務から記録し、どう整理していけばよいか、まずは対話から始めてみませんか。